人を「障害者」と呼ぶこと、呼ばれること

この夏、相模原の施設で起きた凄惨な殺傷事件について、「ニュースの言葉」というタイトルの記事が、東京新聞に書かれました。毎日掲載されている「記者ごよみ」のコーナーです。事件の三日後のことで、友人でもある女性記者さんが送ってくれました。

ニュースの言葉

相模原での事件に、障がいのある子どもの母親が「聞かせたくない言葉も飛び交う報道」と。伝えることは重いことだと、あらためて教えられる。

(2016年7月29日(金)東京新聞「記者ごよみ」)

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新聞の言葉の存在感。私は、この小さな記事に、読者として支えられました。

報道番組から流れた、予期せぬ言葉。無防備な自分たち。

この事件は、いくつかの意味で、私自身にも近いところで起きたものでした。被害を受けた方の一部が、自宅から徒歩でも行ける大学病院に運ばれました。私の父がかかりつけにしている病院で、前日に受診したばかりでした。ケガをおった方々が最初に運ばれたに違いない、救急外来の様子も知っています。

未明に事件が起きたまま、その日は、時間が経ってもことの詳細がわからない様子でした。私は、どういうことなのか知りたく、気になり、心配で、新情報が入っては伝えるテレビ番組を流しっぱなしにして、パソコンに向かって仕事をしていました。

知的障がいをもつ私の息子も、自宅にいました。そして、午後になり、テレビから、突然障がいのある者を否定するような容疑者の考えが流されたのです。その言葉が何度も読み上げられるので、私は、テレビを消しました。

恐ろしい言葉でした。

番組では、もちろん、誰も、その容疑者の言葉や考えを、肯定しませんでした。しかし、そのフレーズが繰り返し伝えられ、耳に入る。文字にもなって画面にうつされ、目に入る。そのことが私には耐え難く、また、息子がそれを見たり聴いたりすることは阻止したいと感じ、テレビを消しました。

新しい情報をテレビから得ることは、あきらめました。

「ショッキングな言葉」への配慮の策は・・・?

私たち親子は「障がい」の当事者ということになるでしょうか。

息子は、理解の力が独特で、感じやすいところがあり、ものごとの認識が少し曖昧で、そして、思春期のさなかにいる男の子です。彼は、学校のクラスメートに「健常者」がいない環境で暮らしています。そんな息子に聞かせたくないショッキングな言葉が、突然、テレビから流れたのでした。

私としては、事件の真相や背景、それから、ひとりで夏のクラブ活動に登下校する我が子が安全なのかどうかなどを知りたいと思い、凄惨な事件内容に耐えながらテレビをつけていたところです。その時点でも、息子にとって内容がどうかと少し心配していたのに、まさか、障がいを持つものに対するあれほどの言葉が、ダイレクトに、大々的に伝えられるとは思っていませんでした。

容疑者が以前から言っていたとされる「障害者は〇〇」という言葉は、まだ事件の真相があきらかになっていない段階では、特に、その人の思想や事件の背景につながる何かを推測する情報として、意味のあるものだったと思います。ですから、変に隠さず、伝えてほしいことではあると思います。

しかし、同時に、その「障害者は〇〇」というのは、非社会的なフレーズで、慎重に取り扱いたい表現だったと思います。そんな言葉を何度も何度も伝えたり、長く大きく文字で表示したりすることは、どうなのか・・・。その言葉そのものを、日本中の子どもたちが目にして耳にすることも、私は、望ましいと感じません。報道の自由も守りながら、もう少し何か配慮する手段は考えてもらえないものかと、思いました。

「障害者」という呼びかけ

今回、日が経つにつれ、報道内容は少しやわらぎ、配慮も見られたように、なんとなく感じました。容疑者の言葉が、そのままフレーズで使われる報道シーンも減ったように感じて、ほっとしました。

ただ、その中で、もうひとつ気になったのが、「障害者」という言葉そのものです。この言葉も、何度も何度も出てきました。

「障害者のみなさん」という呼びかけも、されていました。私が見た、呼びかけの多くは、温かく力強く、正義と慈愛に満ちた内容でした。ですから、私が、ここで書くのは、この言葉の「使い方」に限る話なのですが、単純に、人に「障害者」と呼びかけることには違和感がある、というのが、私の印象です。

多くの人が、まったく悪気のないまま気づかぬうちに、頭の奥の方で差別をしてしまっているようにも思えてしまいました。「障害者という人間」が、自分たち「人間」のほかにいると思っているかのように。

「障害者」と人を呼ぶ、そんなことについて、もう少し意識が高まるといいなと思います。意識が変われば、言葉の使われ方や、響きも変わるはずです。

もちろん、違和感をもちながらも、言葉は通じないと意味がないので、便宜上、この表現を使うケースも多いと思います。私もです。どちらにしても「障害」というネガティブな言葉を使うこと自体にも議論がありますし、変わっていかなければならないとは思います。英語では、challengeという言葉を使うことが多くなっているでしょうか。日本での表現はなんとしたらよいか。私も、やはり、迷い、考え続けています。

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何が大事かという「軸」のこと

それから、この事件そのものについて。

私は、しばらく語る言葉を持ち得ませんでした。色々な感情や考えが湧いてきて、日が経っても、まだ整理しきれません。ただ、容疑者の言葉について、(今度は、報道や表現でなく内容について)ひとつだけ書くなら、人は、人として生きないと、自分もその環境も、破綻に向かってしまうのではないかということです。

この事件から起きた議論などを見ていて、私が強く懸念したのは、生きていく上での軸のことでした。そのことだけ少し書きます。お金のことです。

経済の発展を主軸にしてしまう考えや動きが社会に蔓延していることが、とても気になります。経済のための動き・・・というか、「利益を産む」こと、「お金をたくさんもつ」ことで豊かになれるという考えや動きは、一般的だけれど、そこには誤解があると思います。

自分(たち)や、組織、国家などが、お金をもつ、確保する、手に入れる・・・それをゴールにして動く・・・、それがうまくできれば豊かになる・・・。それは、特に産業おいての、限られた条件における限られたシチュエーションでのみ有効に機能する考えだと思います。

私は、お金も、この世界にある循環を成り立たせる、一要素として捉えるのがふさわしいと思うのです。お金は、モノをつなぎ、不便や欠如、もしかしたら、「(人のではなく社会の)障がい」を埋める便利なものなのではないかと思います。これを取り合うのが良いのではなくて。今のようにとり合うことを軸にして、とれた人、とれる人、もっている人に幸せや価値が与えられると考えたら、人や社会に無理なことが起きて、歪み、壊れていってしまうだろうと、私は、思います。

お金もエネルギーも思考もモノも人も含んだ循環を成り立たせる全体図と、ひとりひとりの人や、ひとつひとつの命のことをいつもできるだけ考えて、人が支え合い、個人の暮らしが守られる構造を組みこむ形で世界の「豊かさ」を、めざしていけないかと思います。

お金の考え方や位置づけをもっと広く大きくしないと、人の暮らしの軸に据えるにはムリがあると思う。「お金」の捉え方を、もっと確認しあえないかと思います。

人の技術が発展していくのは素敵だけれど、それを進めていく力についても考え直してみたい。弱肉強食が身についた動きが自然に身についているような人として育つのも育てるのも、哀しいです。もう、それは、終わりにしないと・・・と思います。


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